日本人は牛乳が体に合わない?7割が下す真相と給食定着の歴史
日本人は牛乳が体に合わない?7割が下す真相と給食定着の歴史の背景について、最新情報を取りまとめてご紹介します。
成人の大半が乳糖を十分に分解できない身体構造を持ちながら、なぜ牛乳は日本の食卓の主役に躍り出たのでしょうか。その答えは、日本人と牛乳の歴史における政治的・社会的な大転換にあります。
歴史を遡ると、日本における搾乳の記録は飛鳥時代、渡来系の医師によって牛乳が献上されたことに始まります。奈良・平安時代には「蘇(そ)」と呼ばれる乳製品が作られましたが、これは貴族や天皇家のごく一部が薬や滋養強壮として口にする超高級品に過ぎず、一般庶民とは無縁でした。その後、仏教の肉食禁忌の影響もあり、牛乳文化は長きにわたり完全に途絶えます。
転機が訪れたのは明治維新です。開国とともに欧米列強の体格差に圧倒された明治政府は、富国強兵と国民の体格向上を急務と位置づけました。明治天皇が1872(明治5)年に牛乳を日常的に飲むようになったことが新聞で報じられると、「牛乳を飲むことこそ文明開化」という価値観が一気に広がります。没落した旧武士たちが生活の糧として牛を飼い始め、財界人も巻き込んだ牛乳ビジネスが勃興しました。当時の東京では、学生や芸者たちが新聞や雑誌を片手に、約4銭を支払って牛乳とパンを楽しむモダンなカフェ文化が花開いたのです。
しかし、当時の牛乳は依然として嗜好品であり、一般国民の日常食にまでは至っていませんでした。決定打となったのは、第二次世界大戦後の極度の食糧難と学校給食でした。
焦土と化した戦後の日本で、子どもたちの栄養失調を救うために持ち込まれたのが、米国のLARA(アジア救済公認機関)やユニセフから送られた「脱脂粉乳(スキムミルク)」でした。お湯で溶かした脱脂粉乳は独特の生臭さがあり、決して美味しいものではありませんでしたが、飢餓に瀕していた子どもたちにとっては貴重な動物性タンパク質とカルシウム源でした。
1954年に「学校給食法」が成立すると、米国の余剰小麦と脱脂粉乳を基盤としたパン給食が制度化されます。その後、1960年代の高度経済成長期に入ると、国内の酪農振興とコールドチェーン(低温流通網)の発達に伴い、脱脂粉乳から冷たいビン入りの「生乳・普通牛乳」へと切り替えが進みました。「米飯給食になっても牛乳がセットで付いてくる」という特異な光景は、1970年代以降の米余り対策でご飯給食が復活した際も、栄養基準(特にカルシウム摂取量)を満たす代替え品が見当たらず、そのまま牛乳の配給が温存された結果生まれた制度の遺物なのです。
「牛乳を飲んで大きくなりなさい」と教え込まれた昭和・平成の世代体験によって、体質的には受け付けない人が多いにもかかわらず、牛乳は「健康に必須の国民的インフラ」として強固に刷り込まれることになりました。