東大卒から無一文へ…尾崎放哉の破滅人生と「咳をしても一人」の真意
東大卒から無一文へ…尾崎放哉の破滅人生と「咳をしても一人」の真意に関する深掘り解説を分かりやすく解説いたします。
1885年(明治18年)、鳥取県の裕福な家庭に生まれた放哉(本名:尾崎秀雄)の経歴は、前半生だけを見れば当時の日本のトップエリートそのものでした。第一高等学校(一高)を経て東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)政治学科を卒業。高級官僚や大企業の幹部コースが約束されていた輝かしい道でした。
卒業後は東洋生命保険(現・朝日生命保険)に入社し、契約課長まで異例のスピード出世を果たします。私生活でも1911年に妻の馨(かおる)と結婚し、誰もが羨む順風満帆な生活を送っていました。しかし、その内面には常に周囲と溶け合えない不適合感と、過剰な自意識が渦巻いていたのです。
転落の決定打となったのは、度を越したアルコール依存と強烈な自尊心でした。酒に酔っては上司や同僚に暴言を吐き、会社での居場所を自ら失っていきます。1921年、ついに会社を免職。その後、再起をかけて朝鮮・京城(現・ソウル)や満州へ渡るものの、そこでも飲酒トラブルを繰り返して完全に挫折しました。
放哉の破滅的な生活は家庭をも崩壊させます。妻・馨は長年放哉の乱行に耐え、朝鮮まで付き従いましたが、生活費すら酒に変えてしまう夫に絶望。1923年頃に事実上の破綻を迎え、放哉は最愛の妻とも離縁することになりました。地位、財産、名誉、そして最愛の伴侶。自らの手で全てを投げ捨てるように失った放哉は、京都の一燈園を経て寺院の堂守(寺男)として生きる無一文の道を選びます。