真田幸村はなぜ関ヶ原不在?西軍についた理由と第二次上田合戦の真相
真田幸村はなぜ関ヶ原不在?西軍についた理由と第二次上田合戦の真相に関する基本知識を初心者にも親しみやすくまとめました。今すぐチェックことができます。
関ヶ原の戦いが勃発した1600年9月15日、真田幸村(信繁)は決戦場となった岐阜県不破郡関ヶ原にはいませんでした。幸村は父・昌幸とともに、本拠地である信濃国・上田城(現在の長野県上田市)に籠城し、東海道を進む徳川家康の本隊とは別に中山道を西進していた徳川秀忠率いる東軍別動隊を迎え撃っていました。
関ヶ原の主戦場と上田城の間には、直線距離にして約200キロメートルもの山岳地帯が横たわっています。当時の中山道を進軍するには数日以上の移動日数を要するため、上田城で迎撃戦を展開していた真田軍が関ヶ原の当日決戦に駆けつけることは物理的にも不可能でした。
西軍の首魁である石田三成からの密書を受けた真田父子は、徳川秀忠の率いる徳川軍主力(約3万8000人)を上田城に引きつけて拘束する防衛拠点の役割を完璧に遂行していました。関ヶ原の本戦に不在だったのは、戦いを避けていたからではなく、「秀忠の進軍を絶対に阻止する」という極めて重要な戦略任務を担っていたからです。