大和朝廷を震わせた蝦夷の歴史と正体|縄文Dnaとアテルイ激闘の真実

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朝廷の度重なる侵略に対し、東北の蝦夷たちが結束して立ち上がったことで勃発したのが、約40年にも及ぶ泥沼の戦乱「三十八年戦争(774年〜811年)」です。この戦いの中で、朝廷軍を幾度も恐怖に陥れた稀代の軍事指導者が、日高見国(現在の岩手県奥州市周辺)のリーダー・阿弖流為(アテルイ)でした。

789年の「巣伏(すぶせ)の戦い」において、アテルイと副将の盤具公母礼(モレ)は約1,500人の寡兵を率い、紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍本隊数万人を北上川の険しい地形へ誘い込みました。地の利を活かしたゲリラ戦法と精強な騎射によって朝廷軍を包囲・壊滅させ、溺死者を含め1,000人以上の死傷者を出させる歴史的大勝利を収めます。

この大敗に衝撃を受けた桓武天皇は、軍備を徹底的に再編し、類まれな軍事の天才である坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢します。田村麻呂は力任せの武力行使だけでなく、懐柔策や城柵網の構築を組み合わせた緻密な戦略を展開。長引く戦争によって民が疲弊し、孤立を深めたアテルイとモレは、802年、同胞の命と土地の保全を信じて田村麻呂に降伏しました。

田村麻呂はアテルイたちの武勇と統率力を高く評価し、彼らを朝廷軍の指揮官として登用して東北統治に役立てるべきだと、平安京の朝廷に必死の助命嘆願を行いました。しかし、蝦夷の反乱を極度に恐れた公卿たちの強硬論に押し切られ、アテルイとモレは河内国(現在の大阪府枚方市)にて処刑されるという非業の最期を遂げました。

佐々木 一輝

佐々木 一輝

ビジネス戦略アナリスト

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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