唐招提寺はなぜ誕生したか?鑑真の覚悟と国宝建築の真相を徹底解剖

唐招提寺はなぜ誕生したか?鑑真の覚悟と国宝建築の真相を徹底解剖についての疑問解決ガイドをご紹介します。

唐招提寺が創建された背景を理解するには、奈良時代の日本が直面していた「僧侶の資質問題」と、それに終止符を打つために招かれた鑑真和上の足跡を紐解く必要があります。

8世紀初頭の日本では、税や兵役を逃れるために自称僧侶となる「私度僧(しどそう)」が急増し、社会秩序と国家財政を揺るがしていました。当時の法制度下で正式な僧侶として認められるには、十人の高僧の前で厳格な戒律を守る誓いを立てる「受戒(じゅかい)」の儀式を経なければなりませんでしたが、当時の日本には正しく受戒を授けられる「伝戒師」が一人も存在していませんでした。

この事態を重く見た聖武天皇の命を受け、遣唐使の若い僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が唐へ渡り、揚州大明寺の大徳であった鑑真和上へ来日を懇請しました。弟子たちが渡海の危険性に恐れをなす中、鑑真和上は「これは法のためである。どうして身命を惜しむことがあろうか」と自ら日本行きを決意したと記録されています。

しかし、その航海は過酷を極めました。唐の官憲による密告と妨害、暴風雨による漂流と難破を繰り返し、実に5度の渡海失敗を経験します。この過程で愛弟子の栄叡が客死し、鑑真和上自身も過酷な環境と風土病により視力を完全に失いました。それでも志を曲げず、753年に6度目の挑戦でようやく日本の地(現在の鹿児島県南さつま市坊津)へ生きて辿り着いたのです。要した歳月は実に12年に及びました。

来日を果たした鑑真和上は東大寺の大仏殿前に戒壇を築き、聖武上皇や光明皇太后をはじめとする400名余りに菩薩戒を授けました。その後、759年に天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧宅地を下賜され、私的な戒律研究・修練の道場として開いたのが「唐律招提(とうりつしょうだい)」、すなわち現在の唐招提寺の始まりです。国家の統制から離れ、本質的な仏道を学ぶ純粋な修行の場を求めた鑑真和上の強い信念が、この寺の設立動機に他なりません。

渡辺 美咲

渡辺 美咲

ガジェット&アプライアンスライター

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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