「美濃のマムシ」斎藤道三の生涯|二代説と下克上の真相を徹底解剖

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信長という強力な盟友を得た道三でしたが、晩年は身内によるクーデターによって悲劇的な幕切れを迎えます。1554年に家督を譲った嫡男・斎藤義龍(よしたつ)との不和が深刻化したのです。

道三は聡明な義龍よりも、次男の孫四郎や三男の喜平次を偏愛し、義龍の廃嫡を画策したとされます。さらに義龍には「実は土岐頼芸の実子ではないか」という落胤(らくいん)説の噂も付きまとっていました。身の危険を察知した義龍は1555年、病と偽って二人の弟を稲葉山城に呼び出し謀殺。道三に対して公然と反旗を翻しました。

1556年4月、美濃・長良川を挟んで両軍が激突した長良川の戦いが勃発します。道三の非情な政治に反発していた美濃の国人衆の多くは義龍方につき、義龍軍1万7500人に対し、道三軍はわずか2700人余り。圧倒的な兵力差の中で道三は鬼神の如く奮戦したものの、最後は義龍配下の兵に討ち取られ、壮絶な最期を遂げました。

道三は討ち死にする直前、信長に対して「美濃一国を信長に譲り渡す」という遺言状(美濃譲状)を託しました。この大義名分を得た信長は、のちに義龍の遺児・斎藤龍興を破って美濃を平定することになります。

斎藤家の家系図を辿ると、義龍の系統は龍興の代で美濃を追われ没落しましたが、道三の血脈は意外な形で歴史に名を残しました。道三の四男とされる斎藤利治は信長・信忠親子に忠節を尽くして本能寺の変で殉死。さらに、道三の側近であった斎藤利三(光秀の重臣)の娘・お福は、のちに徳川三代将軍・家光の乳母となる春日局として江戸幕府の中枢で絶大な権力を握ることになります。

池田 達也

池田 達也

マネー&キャリアエディター

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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