江戸三大改革の成敗を分けた真相|吉宗・定信・忠邦の誤算と現代への警鐘
江戸三大改革の成敗を分けた真相|吉宗・定信・忠邦の誤算と現代への警鐘の要点を丁寧に掘り下げてご紹介します。
江戸三大改革の根底に共通していたのは、極端なまでの「倹約令」でした。幕府の財政が傾くたび、指導部が決まって打ち出したのが、衣食住の贅沢禁止、祭礼の規模縮小、娯楽の制限です。しかし、これが経済学的にどのような帰結をもたらしたのかを見過ごすことはできません。
現代のマクロ経済学の観点から分析すれば、不況下で政府が徹底した緊縮財政を敷き、民間消費を強制的に抑制することは、消費需要を蒸発させてデフレスパイラルを招く危険な愚策です。寛政の改革で松平定信が出した棄捐令は、旗本や御家人たちが抱えていた総額120万両(現在の貨幣価値にして数百億円から一千億円規模)ともいわれる借金をチャラにしました。これによって武士層は一時的に息を吹き返したものの、莫大な貸倒れを食らった商人層(札差)は自己防衛に走り、武士への新規融資を拒絶。結果として江戸市中の信用収縮が引き起こされ、商業活動は一気に凍りつきました。
これと極めて対照的なアプローチをとったのが、三大改革のあいだに位置する田沼意次でした。田沼は、商人の経済活動を無理に抑え込むのではなく、株仲間として公認することで営業独占権を与える見返りに「冥加金(運上金)」という税金を徴収しました。長崎貿易では俵物(干しアワビやフカヒレ)を清へ輸出して銀や銅の海外流出を食い止め、蝦夷地開拓や印旛沼の干拓など、公共事業によるインフラ整備と経済成長によって税収を増やそうと試みたのです。
当時の儒学者や武士階級は田沼の政策を「利に走り武士の風上にも置けない下賤な政治」と罵倒し、贈収賄の温床として激しく批判しました。しかし、すでに貨幣経済の奔流を止めることが不可能だった時代において、市場と税制を接続しようとした田沼の着眼点は、むしろ先進的な経済政策だったと言えます。その田沼路線を全否定し、「武士は農業に戻り、質素倹約に励むべし」と時計の針を無理やり逆回転させようとした寛政・天保の改革が、必然的に構造的破綻を迎えたのは自明の理でした。