いにしえの奈良の都の八重桜の誕生秘話!紫式部が託した名歌の全貌
いにしえの奈良の都の八重桜の誕生秘話!紫式部が託した名歌の全貌にまつわる最新トピックを詳しく紐解きます。
この歌が平安文学史上、永遠の輝きを放っている最大の理由は、あらかじめ推敲を重ねて作られたものではなく、張り詰めた緊張感の中で放たれた即興の返歌であった点にあります。鎌倉時代の説話集『古今著聞集』や『袋草紙』には、その息をのむような誕生の瞬間が克明に記されています。
時は平安中期、一条天皇の御代。一条天皇の中宮(皇后)であった藤原彰子(藤原道長の長女)のもとに、旧都・奈良の東大寺から、見事な八重桜の一枝が献上されました。宮中において、このような慶事の献上物を受け取る際には、その桜の美しさと献上元への謝意、そして宮廷の繁栄を寿ぐ返歌をその場で詠み上げるのが習わしでした。
当時、中宮彰子のサロン(後宮)には、当代随一の知性を誇る紫式部をはじめ、錚々たる女房たちが控えていました。本来であれば、筆頭女房であり宮廷を代表する歌人である紫式部がその桜を受け取り、歌を詠むのが順当な役割分担でした。ところが、桜を載せた台を前にした紫式部は、ふと後ろを振り返り、出仕してまだ日の浅い新人・伊勢大輔に向かってこう囁いたのです。
「この役目は、そなたが受け取りなさい。これほどの晴れ舞台を、若い新参者に譲りたいのです」
突然の指名に、伊勢大輔の胸は激しく波打ったはずです。伊勢大輔は名門歌人・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)を祖父に持つ名門の血筋とはいえ、宮廷に入ったばかりの新人。しかも、その場には娘・彰子の威光を天下に示そうとする時の権力者・藤原道長が同席していました。道長は鋭い視線を向け、「さあ、その桜を受け取って歌を詠むがよい」と伊勢大輔に即座の詠進を促したのです。
もし凡庸な歌を詠めば、祖父の名を汚すだけでなく、後宮全体の恥となりかねない極限の重圧。しかし、伊勢大輔は取り乱すことなく桜の枝を受け取ると、淀みなくあの名句を詠み上げました。奈良の「八重」と宮中の別称である「九重」を重ね、過去の栄華を今現在の道長・彰子の治世へと結びつける完璧な言祝ぎ(ことほぎ)。その場にいた藤原道長は深く感嘆し、公卿一同も惜しみない称賛を送ったと伝えられています。