黒百合の花言葉はなぜ呪いと恋?佐々成政の伝説と恐ろしい真相

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黒百合の花言葉に「呪い」や「復讐」という恐ろしい意味が定着した最大の契機は、戦国時代末期に富山城主を務めた武将・佐々成政(さっさ なりまさ)にまつわる伝説です。

郷土史料や現地の口伝によると、成政には「早百合(さゆり)」という類まれなる美貌を持つ側室がいました。成政から寵愛を一身に受けていた早百合でしたが、それを妬んだ周囲の側室たちが「早百合は成政様以外の家臣と密通し、身籠もった子は成政様の子ではない」という悪質なデマを流します。

激怒した成政は一切の弁明を聞き入れず、早百合の髪を掴んで引きずり回し、神通川のほとりで惨殺。さらに、早百合の一族18人までもことごとく処刑するという苛烈な凶行に及びました。処刑される直前、早百合は無実を叫び、次の恐ろしい呪言を遺したと伝えられています。

「己の無実を晴らす術はないが、我が魂は立山に留まり、立山に黒百合の花が咲く時、佐々家は滅亡するであろう」

その後、佐々成政は豊臣秀吉への臣従を余儀なくされ、秀吉の正室・おね(北政所)に立山連峰の高山植物である珍しい黒百合を献上して歓心を買おうとしました。ところが、秀吉の側室・淀殿(茶々)がこの黒百合に対抗して大量の見事な百合を取り寄せ、成政の面目を完全に潰したという逸話(黒百合の茶会事件)が残されています。成政は後に肥後国への転封先で大規模な国人一揆を引き起こし、秀吉の命により切腹。早百合の呪詛通りに佐々家は没落を遂げました。この身の毛もよだつ悲劇こそが、黒百合の怖い理由の原点です。

佐々木 一輝

佐々木 一輝

ビジネス戦略アナリスト

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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