王政復古の大号令とは?大政奉還との違いや小御所会議の真相を解説
王政復古の大号令とは?大政奉還との違いや小御所会議の真相を解説の重要なポイントについて、最新情報を基に徹底解説します。
大号令が発せられた慶応3年12月9日の夜、京都御所内の「小御所」にて、新政府の最初の最高幹部会議である小御所会議が開かれました。この会議は、日本史上屈指の緊迫した権力闘争の舞台として知られています。
会議の焦点は、その場に呼ばれなかった徳川慶喜の処遇でした。岩倉具視らは、慶喜に対して官位の返上(辞官)と、徳川幕府が保有する領地400万石すべての朝廷への返還(納地)を突きつける「辞官納地」を断行しようとしました。
これに対し、土佐藩の前藩主・山内容堂が猛烈な剣幕で異議を唱えます。容堂は「大政奉還という前代未聞の英断を下した慶喜公を排除し、不在の場で処分を決めるのは陰謀である」「幼少の天皇を操り、権力を盗もうとする薩摩のやり方は不義不道だ」と岩倉らを面罵しました。越前藩主の松平春嶽らも容堂に同調し、会議室は険悪な空気に包まれます。
当時、劣勢に立たされた岩倉具視は激昂し、「恐れ多くも幼冲の主上(幼い天皇陛下)を軽んじる発言は不敬である!」と容堂を一喝。場が紛糾して一時休憩となった際、御所の外で警備部隊を指揮していた西郷隆盛の元へ、岩倉派の使者が相談に走りました。その時、西郷が静かに言い放ったと伝えられる言葉が記録に残されています。
「ただ、短刀一本あるのみ(言葉で決着がつかないなら、反対派を刺し殺してでも押し通すまでだ)」
この西郷の冷徹な武力威嚇が容堂側に伝わると、場の空気は一変しました。再開された会議では反対派は沈黙を余儀なくされ、最終的に慶喜に対する内大臣の辞職と幕府直轄領の返納(辞官納地)が正式に決定されたのです。