キングダム蒙驁の最期と史実の真相|廉頗との因縁から名言まで徹底解剖
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作中では「凡庸な戦法しか使えない凡将」として描かれる場面もある蒙驁ですが、中国の正史『史記』(秦本紀、白起王翦列伝、蒙恬列伝)を開くと、その実像は驚くべき武功に満ちた一流の軍事指導者であったことが分かります。
蒙驁はもともと斉(せい)の出身であり、昭王の時代に秦へ渡って仕官しました。他国からの流入者でありながら、秦の中枢で「上卿(じょうけい)」の地位にまで上り詰めた事実は、彼の類まれな実務能力と人心掌握術を如実に示しています。紀元前249年に韓を攻めて滎陽(けいよう)を奪い三川郡を設置したのを皮切りに、趙や魏を連年攻撃して数十の城を奪取。昭王、孝文王、荘襄王、そして始皇帝(嬴政)の初期に至るまで、秦の領土拡張を最前線で牽引し続けました。
史実における結末は紀元前240年(始皇帝7年)の死去であり、戦死ではなく病死とされています。これは作中の描写と一致しており、原泰久氏は史実のタイムラインを極めて正確に踏襲しながら、ドラマチックな人間ドラマを肉付けしたと言えます。