大鳴門橋の新幹線計画はなぜ消えた?空間の現在と四国新幹線の行方を追う

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大鳴門橋に新幹線が通らない最大の要因は、大鳴門橋自体の欠陥ではなく、ペアとなるはずだった明石海峡大橋道路単独橋への設計変更にある。この歴史的決断の背景には、昭和後期の日本が直面した経済構造の激変と、旧日本国有鉄道(国鉄)の経営破綻という切迫した台所事情が存在していた。

1970年に制定された全国新幹線鉄道整備法に基づき、1973年に「四国新幹線」(大阪市〜徳島市〜高松市〜松山市〜大分市)および「四国横断新幹線」(岡山市〜高知市等)の基本計画が決定された。本州と四国を結ぶ本州四国連絡橋の3ルートのうち、神戸鳴門ルートは関西圏と四国東部を直結する新幹線の最短ルートとして位置づけられ、大鳴門橋は上層に6車線の高速道路、下層に新幹線規格の複線レールを収容できる本格的な鉄道道路併用橋として着工された経緯がある。

暗雲が垂れ込めたのは1970年代後半から1980年代初頭にかけてである。相次ぐオイルショックによる狂乱物価と景気低迷、さらに国鉄の累積赤字が社会問題化するなか、当時の政府は膨大な国家予算を投じる本四架橋プロジェクトの全面的な見直しを迫られた。特に難工事が予想された明石海峡大橋は、海峡の水深や潮流、耐震基準のハードルから建設費が天文学的に膨らむことが試算されたのである。

当時の運輸省および関係各所の記録によると、鉄道・道路併用の巨大吊り橋を架ける財政的余力はすでに残されていなかった。国鉄再建法が施行され、分割民営化へのカウントダウンが進む中、1985年に大鳴門橋が開通する直前、政府は明石海峡大橋の鉄道敷設を正式に断念。道路単独橋として建設することを決定した。本州側からの鉄路が物理的に途絶えた瞬間、鳴門海峡の上に完成していた大鳴門橋新幹線スペースは、前後の線路と接続する見込みのない「宙に浮いた空間」へと追いやられたのである。

中川 明日香

中川 明日香

ビジネス戦略アナリスト

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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