東洋の魔窟・九龍城の光と影!違法迷宮の解体理由と現在を徹底追究
今注目を集めている 東洋の魔窟・九龍城の光と影!違法迷宮の解体理由と現在を徹底追究について、多角的な視点を整理して公開しています。
一時は香港政庁も手を出せなかった城砦が、なぜ最終的に解体へと向かったのでしょうか。その最大の決定打は、1984年の「中英共同声明」による1997年の香港返還の決定でした。
植民地支配の終わりが見えたことで、主権をめぐる中英間のdiplomaticな駆け引きは決着を迎えます。「返還までに香港の暗部を一掃し、近代都市としての体裁を整えたい」という両政府の利害が完全に一致。1987年1月14日、中英合意のもとで九龍城の完全解体計画が電撃的に発表されました。
当然ながら、立ち退きを巡っては激しい反発が巻き起こりました。長年住み慣れた土地を離れたくない高齢者や、無免許ゆえに外部では営業できない医師・工場主たちが抗議の声を上げたのです。香港政庁は総額約27億香港ドル(当時の日本円で約500億円規模)の巨額予算を投じ、手厚い移転補償金と公営住宅(公屋)の優先入居権を用意しました。
数年にわたる説得と立ち退き交渉の末、1993年3月に本格的な取り壊し工事が開始。翌1994年4月、世界中が固唾をのんで見守るなか、異形の高層スラムは跡形もなく地上から姿を消しました。かつての住民の多くは、近隣の黄大仙(ウォンタイシン)や観塘(クントン)といった新興公営団地へと再定住を果たし、香港の経済成長の波の中へと溶け込んでいきました。