尊王攘夷の真相|幕末の熱狂はなぜ倒幕と開国へ激変したのか

話題沸騰中の 尊王攘夷の真相|幕末の熱狂はなぜ倒幕と開国へ激変したのかについて、多角的な視点を分かりやすく掲載しています。

尊王攘夷運動の中心核となり、幕末の歴史を暴力的な熱量で牽引したのが長州藩(山口県)でした。そして、その思想的震源地となったのが、長州の思想家・吉田松陰です。

松陰は自著『幽囚録』や野山獄での手記において、幕府の無策を激しく指弾し、身分を問わず立ち上がる「草莽崛起(そうもうくっき)」を提唱しました。松陰が開いた私塾「松下村塾」からは、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった、のちの維新史を動かすキーパーソンが続々と輩出されます。松陰自身は1859年の安政の大獄で露と消えましたが、刑死直前に遺した『留魂録』の一節「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という魂の叫びは、弟子たちを強烈な狂気と行動主義へと駆り立てました。

【尊王攘夷運動を動かした重要人物一覧】
・吉田松陰(長州):松下村塾で志士たちを精神的に覚醒させた思想的カリスマ。
・久坂玄瑞(長州):松下村塾の双璧。尊攘激派の筆頭として京都を席巻、禁門の変で自刃。
・高杉晋作(長州):奇兵隊を創設。下関戦争の講和談判に臨み、のちに藩論を武力倒幕へ統一。
・桂小五郎 / 木戸孝允(長州):逃げの小五郎と呼ばれつつ地下工作を主導、薩長同盟の立役者。
・真木保臣(久留米):水人生神と称された神官。尊攘理論の狂信的指導者として京都で自爆。
・西郷隆盛・大久保利通(薩摩):初期は公武合体を推進するも、幕府に見切りをつけ倒幕へ舵を切る。

京都を掌握した長州藩尊攘派は、孝明天皇を押し立てて自ら攘夷の親征(天皇自ら先頭に立って外国を討つ)を画策するまでに急進出します。しかし、1863年の「八月十八日の政変」で京都を追放されると、翌1864年には失地回復を狙って軍勢を率いて京都へ上洛。御所の門前で会津・薩摩などの幕府軍と激突する「禁門の変(蛤御門の変)」を引き起こしました。

この戦いで長州勢は敗北し、久坂玄瑞や真木保臣らは無念の自刃を遂げます。京都の街路は戦火(どんどん焼け)によって市街の約7割を焼失。長州藩は孝明天皇から「朝敵」に指定され、幕府は外国連合軍の支持も背景に「長州征討」を発動しました。長州藩は一時期、壊滅の危機に瀕し、表向きの尊王攘夷運動は完全に瓦解することになります。

田中 結衣

田中 結衣

デジタルマーケティングコンサルタント

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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