伊東甲子太郎暗殺の真相とは?新選組参謀が油小路に散った決別の理由

伊東甲子太郎暗殺の真相とは?新選組参謀が油小路に散った決別の理由とは一体何なのか? 背景や要点を整理してお届けします。

しかし、蜜月は長く続きませんでした。決別の決定的な要因は、双方の思想的な乖離でした。

近藤勇や土方歳三は、京都守護職・松平容保(会津藩主)に忠誠を誓い、徳川幕府の存続を絶対視する「徹底した佐幕路線」を歩んでいました。これに対し、水戸学の影響を強く受けた伊東の思想は、天皇(朝廷)を中心に国を一つにまとめる尊皇攘夷であり、開国を視野に入れつつも倒幕ではなく「大君(将軍)による挙国一致体制」を目指す現実的な改革論でした。

慶応2年(1866年)末の孝明天皇崩御、第15代将軍・徳川慶喜の就任という政治力学の激変の中、伊東は新選組の強硬な弾圧路線が日本の近代化を阻害していると危機感を募らせます。

そして慶応3年(1867年)3月、伊東は孝明天皇の陵墓を守る「御陵衛士(通称・高台寺党)」の拝命を名目に、新選組からの合法的な分離独立を画策。新選組の掟である「局を脱する者は切腹」を回避するため、近藤を説得して朝廷・幕府公認の別部隊として京都・高台寺の塔頭月真院に本拠を構えました。このとき、伊東の弟である鈴木三樹三郎をはじめ、幹部格の藤堂平助、二刀流の達人として知られた服部武雄ら計15名が伊東に追随しました。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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