織田信長の妻・濃姫の謎と真相|死因や本能寺の変・側室の正体まで解説

織田信長の妻・濃姫の謎と真相|死因や本能寺の変・側室の正体まで解説を徹底追究! 読者が気になる トピックの裏側を凝縮して配信します。

歴史愛好家の間で長年議論されてきた最大の論点が、濃姫の「死因」と「本能寺の変における動向」です。弘治2年(1556年)に父・斎藤道三が息子の斎藤義龍との合戦(長良川の戦い)で敗死したあと、織田と斎藤の同盟関係は崩壊しました。この時期を境に濃姫の動向が史料から途絶えるため、かつては以下の3つの仮説が激しく対立していました。

  • 早逝説:父・道三の敗死前後、あるいは20代前半の若さで病没したとする説。
  • 離縁説:美濃との同盟破棄に伴い、実家へ送り返されたか美濃へ戻ったとする説。
  • 生存・安土殿説:信長とともに安土城で暮らし、本能寺の変後も生き延びたとする説。

この中で、近年の古文書調査や歴史研究において最も有力視されているのが「安土殿=濃姫(生存説)」です。織田家の菩提寺である京都・大徳寺塔頭の総見院に残る『総見院殿追善記』や、織田信雄が作成した分限帳(家臣や一族への給与・扶持記録)には、信長の正室格として「安土殿」という女性の名が明確に記されています。

記録によると、安土殿は天正10年(1582年)の本能寺の変の際、安土城から蒲生氏郷の案内で日野城へ無事に避難しました。その後は織田信雄や豊臣秀吉の庇護を受け、京都で余生を過ごしたと伝えられています。彼女の命日は慶長17年7月9日(1612年8月5日)、享年78。信長が本能寺で倒れてから実に30年もの年月を生き抜いていたという記録は、映画やドラマで描かれる「炎の中で信長とともに散る濃姫像」とは大きく異なる、したたかで強靭な戦国女性の真実を物語っています。

佐々木 一輝

佐々木 一輝

ビジネス戦略アナリスト

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest