徳姫の生涯と十二ヶ条の訴状|信康自害の真相と知られざる晩年

徳姫の生涯と十二ヶ条の訴状|信康自害の真相と知られざる晩年の要点を詳しく解説してご紹介します。

天正7年(1579年)に夫・信康が自害し、姑・築山殿が処刑されると、徳姫の立場は一変します。天正8年(1580年)、徳姫は二人の幼い娘を岡崎に残し、父・信長の命によって織田家へ戻ることになりました。

安土城へ帰還した徳姫は、その後、同母兄である織田信雄の庇護のもと尾張清洲や美濃で過ごします。天正10年(1582年)の「本能寺の変」で父・信長と長兄・信忠を同時に失うという巨大な悲劇に見舞われますが、徳姫は再婚することなく独身を貫きました。

関ヶ原の戦い以降は京都へ移り住み、出家して見星院(けんしょういん)と号します。信康を死なせた元凶として徳川家から疎外されていたかと思われがちですが、実態は全く逆でした。家康はかつての嫁であり同盟相手の娘である徳姫を丁重に扱い、京都洛北に所領(化粧料)を与えて手厚く経済支援を行っています。二代将軍・徳川秀忠からも敬意を払われ、寛永13年(1636年)に78歳という当時としては稀に見る長寿でその数奇な生涯を閉じました。死因は老衰とされ、墓所は京都の大徳寺総見院や愛知県岡崎市の法性寺などに今も静かに残されています。

高橋 健太

高橋 健太

ライフスタイル編集者

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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