地動説と天動説の真実!ガリレオ裁判の嘘と証明の決定打を徹底解明
話題沸騰中の 地動説と天動説の真実!ガリレオ裁判の嘘と証明の決定打を徹底解明について、詳しいまとめを分かりやすく掲載しています。
漫画『チ。 ―地球の運動について―』の緊迫したサスペンス劇は、多くの読者に「中世末期から近世のヨーロッパでは、地動説を研究・口にしただけで異端審問官に捕縛され、凄惨な拷問の末に火刑に処された」という強烈な印象を焼き付けました。しかし、史実としての宗教裁判と地動説の迫害を検証すると、創作と歴史的事実の間には決定的な乖離が存在します。
歴史学の知見に基づく客観的事実は以下の通りです。
- 火刑になった学者は地動説が原因ではない:1600年にローマのカンポ・デ・フィオーリ広場で火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノは、しばしば「地動説のために殉教した先駆者」として語られます。しかし、近年のバチカン秘密文書館の研究等で判明している起訴理由は、三位一体の否定、キリストの神性の否定、輪廻転生論といった極めて神学的な異端教義であり、無限宇宙論や地動説はその副次的な要素に過ぎませんでした。
- 教会は科学研究の支援母体でもあった:中世からルネサンス期にかけて、大学を創設し天文学や数学の学者をパトロンとして雇っていたのは他ならぬカトリック教会やイエズス会でした。正確な復活祭の日程を割り出すための改暦(1582年のグレゴリオ暦導入)を主導したのも教会であり、天文学研究そのものはむしろ奨励されていました。
- コペルニクスの著作は当初歓迎されていた:1543年にコペルニクスが『天球の回転について』を献呈したのは当時の教皇パウルス3世であり、当初教会はこれを禁書にするどころか、計算精度の高い便利な数理天文学ツールとして受け入れていました。禁書目録に指定されたのは、ガリレオ事件の余波を受けた73年後の1616年です。
ガリレオ裁判の真の火種:教皇ウルバヌス8世との政争劇
では、なぜ1633年にガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判が苛烈に行われたのでしょうか。教科書的な「理性(ガリレオ)対狂信(教会)」という二項対立ではなく、当時の地政学的な権力闘争と人間関係の破綻にこそ真因がありました。
ガリレオの最大の支援者であった教皇ウルバヌス8世(マッフェオ・バルベリーニ)は、本来は文芸や科学を愛好する開明的な人物でした。教皇はガリレオに対し、「地動説を絶対の真理として断定せず、あくまで一つの数学的仮説として扱うのであれば、自由に論理を展開してよい」と著作の執筆を許可していました。
しかし、1632年に出版されたガリレオの『天文対話』は教皇の顔泥を塗りたくる構成となっていました。作中で天動説を主張する頭の固い保守派の論者「シンプリチオ(愚か者の意)」に、教皇自身がガリレオに与えた助言と全く同じセリフを喋らせたのです。当時、三十年戦争の激化によってプロテスタント陣営との抗争に苦しみ、教会内部の教条主義派(ハプスブルク寄り枢機卿)から「教皇は異端に甘い」と突き上げを食らっていたウルバヌス8世は、親友であったはずのガリレオに公然と愚弄されたと激怒せざるを得ませんでした。
ガリレオは地下牢で拷問具を見せられて威嚇されたものの、肉体的な拷問を直接受けた記録はなく、判決後もトスカーナ大公の邸宅やフィレンツェ郊外の高級別荘での「軟禁」という極めて温情的な処遇を受けました。そして最も有名な台詞、異端誓絶の宣誓後に呟いたとされる「それでも地球は回っている(Eppur si muove)」というエピソードも、裁判から100年以上後の1757年にイギリスの作家ジュゼッペ・バレッティが劇的に脚色した創作であり、同時代の裁判調書には一切記載がありません。