東洋一の産業遺産・神子畑選鉱場跡の真実|歴史と現在の見どころを徹底解説

東洋一の産業遺産・神子畑選鉱場跡の真実|歴史と現在の見どころを徹底解説を徹底追究! 知っておきたい 情報と解説を分かりやすく展開します。

神子畑の歴史は古く、平安時代初期の大同2年(807年)に銀鉱脈が発見されたことに始まります。戦国時代には織田信長や豊臣秀吉の直轄鉱山として栄え、江戸時代には生野代官所の支配下で銀や銅が採掘されました。明治維新後は生野鉱山とともに政府直営の官営鉱山となり、1889年(明治22年)には皇室財産である「御料局生野支庁」に編入されるなど、国家の近代化を支える極めて重要な拠点でした。

転機が訪れたのは1917年(大正6年)のことです。鉱量の枯渇に伴い神子畑での採鉱は終息を迎えます。しかし、近隣に位置する明延鉱山(養父市)で優良な錫(スズ)や銅の鉱脈が次々と発見されたことで、神子畑は「選鉱(掘り出した鉱石から有用な鉱物を分離・濃縮する工程)」の専門拠点として劇的な転換を果たします。

1919年(大正8年)、山の斜面を巧みに利用した大規模な選鉱場が竣工しました。重力を利用して上段から下段へと鉱石を流しながら破砕・浮選・脱水を行う立体的なシステムが構築され、最盛期には月間数万トンもの鉱石を処理する「東洋一の選鉱場」へと上り詰めました。

この巨大システムを支えたのが、明延鉱山と神子畑選鉱場を結ぶ全長約16キロメートルの鉱山鉄道です。明神電車と呼ばれたこの鉄路は、鉱石の輸送だけでなく鉱山関係者や地域住民の足としても運行され、乗車運賃がわずか1円であったことから「一円電車」の愛称で全国に親しまれました。しかし、1985年のプラザ合意以降の急激な円高と金属市況の低迷を受け、1987年(昭和62年)に明延鉱山とともに惜しまれつつ閉山し、約70年におよぶ選鉱拠点としての歴史に幕を下ろしました。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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