1864年の出来事総まとめ!池田屋事件・禁門の変と幕末激動の全真相
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1864年の混乱は西日本や京都だけにとどまりません。関東では、尊皇攘夷論の本山であった水戸藩において天狗党の乱が勃発し、凄惨を極める内戦へと発展しました。
水戸藩の尊攘急進派である藤田小四郎(藤田東湖の四男)や町奉行・武田耕雲斎らは、幕府に破約攘夷(開国通商条約の破棄)を迫るため、筑波山で挙兵。日光や関東各地を転戦したものの、幕府軍や水戸藩内の保守派(諸生党)に追われ、約1,000名の軍勢を率いて京都の一橋慶喜(後の第15代将軍)を頼るべく中山道を西進しました。
厳冬の信濃路や飛騨山脈を越える過酷な行軍の末、越前国(福井県)敦賀に到達した天狗党を待ち受けていたのは、信頼していたはずの一橋慶喜自身が追討軍の指揮官として出陣してきたという残酷な現実でした。万策尽きた一行は投降しますが、幕府軍および福井藩・鯖江藩などの管理下で過酷な監禁生活を強いられます。
当時の記録『敦賀降伏人始末』や関係者の手記には、鰊(にしん)蔵に押し込められた志士たちの悲惨な状況が記されています。結果として、投降者823名のうち353名が斬首処刑されるという、幕末史上類を見ない苛烈な処分が下されました。この悲劇により水戸藩は優秀な人材の大半を失い、明治維新の中枢から大きく脱落することとなりました。
また、禁門の変に伴って発生した京都の大火「どんどん焼け(甲子焼亡)」では、当時の町人日記(『京都町触集成』等)に「東は鴨川、西は油小路、南は七条に至るまで灰燼に帰し、煙天を覆う」と記録されており、市街地の約8割にあたる2万7,000戸以上が焼失。志士たちの理念の衝突が、一般庶民の生命と財産を容赦なく奪い去ったリアルな実態を物語っています。