戦艦大和はなぜ沈没したのか?最後の戦闘と海底に眠る真実の全貌

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1945年4月7日正午過ぎ、部隊は鹿児島県坊ノ岬の南西約200kmの洋上で、米第58任務部隊が放った延べ300機を超える航空隊の猛襲を受けました。視界不良の雲間を縫って急降下爆撃機と雷撃機が波状攻撃を仕掛け、大和の防空砲火を圧倒しました。

特筆すべきは米軍の攻撃戦術です。過去の戦闘訓令を分析していた米海軍は、同型艦「武蔵」の沈没時に両舷へ均等に魚雷を撃ち込んだことで沈没までに長時間を要した経験を踏まえ、大和に対しては攻撃を左舷に集中させる方針を徹底しました。この結果、大和は急速に左へ傾斜し、注水による傾斜復元が追いつかない致命的な状況へ追い込まれました。

比較項目戦艦 大和(坊ノ岬沖海戦)戦艦 武蔵(レイテ沖海戦)戦術・構造面の分析沈没日時1945年4月7日 14時23分1944年10月24日 19時35分大和は白昼の航空攻撃開始から約2時間で沈没推定被弾数魚雷 10〜13本 / 爆弾 5〜7発魚雷 20本 / 爆弾 17発大和は左舷集中雷撃により短時間で傾斜が限界に到達戦闘継続時間約1時間40分約8時間(第1波〜最終沈没まで)武蔵は両舷被弾で耐えたが、大和は復元不能に陥った乗組員と生存者乗員 3,332名 / 生存 276名乗員 2,399名 / 生存 1,376名大和は沈没直前の大爆発により生存率が約8%と極めて低い

日米双方の戦闘記録によると、大和への命中弾は魚雷が少なくとも10本以上、爆弾が複数発とされています。特に左舷後部への連続被雷によって推進軸室や機械室が浸水し、速力が大幅に低下。回避運動が困難になったところへさらなる猛攻を受けました。

山下 哲也

山下 哲也

自動車・モビリティライター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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