円楽一門会の脱退理由と現在|歴代会長・所属落語家と両国寄席の全貌

円楽一門会の脱退理由と現在|歴代会長・所属落語家と両国寄席の全貌にまつわる興味深い視点を詳しく紐解きます。

円楽一門会の成り立ちを語る上で避けて通れないのが、1978年(昭和53年)5月に勃発した「落語協会分裂騒動」です。当時、落語協会の会長を務めていた五代目柳家小さんが導入した「真打昇進試験制度」と、それに伴う大量昇進方針に対し、最高顧問であった大看板・六代目三遊亭圓生が「真打の粗製濫造であり、芸の質を著しく落とす」と真っ向から反対しました。

当時の報道記録や関係者の手記によると、六代目圓生は自らを支持する落語家とともに新団体「落語三遊協会」の設立を宣言。このとき、圓生の総領弟子であった五代目三遊亭圓楽も行動を共にし、落語協会を脱退しました。しかし、新協会への参加を表明していた大看板・三遊亭圓生以外の有力落語家たちが直前で復帰・残留を選んだことで計画は大きく狂い、落語三遊協会は発足当初から厳しい孤立を強いられることになります。

さらに決定打となったのが、1979年9月の六代目圓生の急逝でした。後ろ盾を失った落語三遊協会は解散を余儀なくされ、多くの弟子は落語協会への復帰を模索しました。しかし、五代目圓楽とその一門に対しては復帰の門戸が閉ざされたこと(あるいは五代目圓楽自らが弟子たちを連れて独立を貫く覚悟を決めたこと)により、1980年に「大日本落語すみれ会」を結成。これがのちに改称され、現在の「五代目円楽一門会(通称:円楽党)」へと結実したのです。

都内4大寄席から完全に締め出された五代目圓楽は、弟子たちの高座を確保するため、私財を投じて1985年に江東区東陽町へ寄席「若竹」を開館しました。若竹自体は維持費用の重圧などにより1989年に閉館を迎えましたが、この「定席に頼らず自前の興行場所を切り開く」というハングリー精神こそが、円楽一門会の強靱な生命力の源流となっています。

林 結菜

林 結菜

ライフスタイル編集者

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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