清朝最後の皇后・婉容が阿片に溺れた理由とは?隠された死因と悲劇の真相
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1945年8月、ソ連軍の満洲侵攻と日本の降伏によって満洲国はあっけなく崩壊します。溥儀は婉容ら女性皇族を見捨てて飛行機で逃亡を図るもソ連軍に拘束されました。置き去りにされた婉容は、義妹の嵯峨浩(愛新覚羅溥傑の妻)らとともに中国共産党の八路軍に捕らえられ、各地を転々と連行される過酷な逃避行を強いられます。
最終的に収容された吉林省の延吉監獄(延吉刑務所)において、婉容の運命は尽きました。監獄内で阿片を完全に断たれたことで凄まじい禁断症状(禁断痙攣や幻覚)に襲われ、床を転げ回って苦悶の叫びを上げ続けたと記録されています。満足な医療も食事も与えられないまま、1946年6月20日、栄養失調と阿片の禁断症状による全身衰弱のため、39歳で息を引き取りました。
死後、彼女の遺体は監獄近くの山中に粗末なむしろに巻かれて埋められたとされていますが、正確な埋葬場所は現在も特定されておらず、遺骨も見つかっていません。2006年になり、河北省の清東陵にある溥儀の墓の隣に、彼女の遺品である手鏡を納めた象徴的な「衣冠塚」が建立されました。