勝率9割6分の最強力士・雷電はなぜ横綱になれなかったのか?封印の真相
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これほどまでに無敵を誇り、江戸の大衆から熱烈な支持を受けた雷電が、なぜ「第何代横綱」という歴代横綱の系譜に含まれていないのでしょうか。結論から言えば、現代と江戸時代における「横綱」という概念の決定的な違いと、当時の武家社会の権力構造が複雑に絡み合っていました。
理由1:江戸時代における「横綱」は地位ではなく土俵入りの名誉免許だった
現代の大相撲において横綱は最高峰の「番付・階級」ですが、江戸時代における力士の最高位はあくまで「大関」でした。「横綱」とは、最高位の大関の中で特に品格と抜群の力量を備えた力士に対し、京都の公家・吉田司家(よしだつかさけ)から「白麻の綱を締めて土俵入りを行うこと」を許された名誉資格(免許)に過ぎなかったのです。
番付表の最上段中央に「横綱」という地位が独立して明記されるようになったのは明治42年(1909年)のことであり、雷電が活躍した寛政・文化年間には「大関こそが最高の実力者の地位」でした。つまり、雷電は大相撲の最高位に17年間も君臨しており、制度上は頂点を極めていたことになります。
理由2:お抱え大名・松江藩と吉田司家(熊本藩)の政治的力学
さらに決定的な要因となったのが、幕藩体制下の藩閥関係です。雷電は出雲国松江藩(島根県)のお抱え力士であり、時の名君・松平不昧公(治郷)から絶大な寵愛を受けていました。松江藩主のお抱えとして破格の俸禄と格式を得ていた雷電にとって、他藩の管轄にある権威を無理に求める動機が薄かった背景があります。
一方、横綱免許を授与する権限を握っていた吉田司家は、肥後熊本藩主・細川家の庇護下にありました。寛政元年(1789年)、吉田司家19代追風は、谷風梶之助と小野川喜三郎の2名に史上初となる公認の横綱免許を授与しました。これは吉田司家が相撲界における自らの家格と宗家としての権威を全国に知らしめるための政治的プロモーションでもありました。
谷風と小野川への授与以降、吉田司家による横綱免許の発行は一時的にストップします。松江藩側が熊本藩寄りの吉田司家に対して頭を下げてまで免許を申請しなかったこと、そして吉田司家側も松江藩のお抱え力士である雷電に対して積極的に免許を売り込む理由がなかったことが、実力十分でありながら免許が見送られた最大の力学でした。