徳川光圀の正体|水戸黄門の嘘と暴れん坊の素顔・大日本史の真実

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歴史的な偉人として称えられる光圀ですが、その前半生は決して平穏なものではありませんでした。徳川光圀と徳川家康の関係は、直系の「祖父と孫」にあたります。家康の十一男である水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として1628年(寛永5年)に生を受けました。御三家の一角という申し分のない名門の生まれでありながら、幼少期は自らの出自に激しく苦悩することになります。

当時の徳川光圀の性格や若い頃の行動は、周囲の手を焼かせる典型的な「不良青年」でした。派手な着物をまとい、刀を何本も帯刀して町を練り歩く傾奇者に染まり、吉原の遊郭に入り浸っては放蕩を繰り返しました。後年の家臣が記した伝記『義公行実』などによると、夜な夜な辻斬りの現場に立ち会ったり、自ら人を斬り捨てたりしたという衝撃的な逸話まで記されています。

荒れた行動の根底にあったのは、複雑怪奇な徳川光圀の家系図と子孫をめぐる後継者問題でした。父・頼房には長男・頼重がいたにもかかわらず、なぜか三男の光圀が水戸徳川家の世継ぎに指名されたのです。長兄を差し置いて跡取りとなった事実は、思春期の光圀の心を重く圧迫し、自己否定と反抗心へと駆り立てました。

荒みきった青年・光圀に劇的な転機が訪れたのは18歳の時です。中国の歴史書である司馬遷の『史記』、とりわけ互いに国を譲り合って節義を貫いた兄弟を描いた「伯夷・叔斉列伝」を読んだ瞬間でした。兄への義理を重んじた古代の賢人の生き様に触れた光圀は、人目をはばからず号泣し、「これまでの自分は恥ずべき愚か者であった」と猛省します。これ以降、髷を改めて学問に没頭し、名君への道を歩み始めました。

光圀はこの時の罪悪感を終生忘れず、後継者選びにおいて驚くべき決断を下します。兄・頼重の長男である綱方を自らの養子(後に早世したため次男の綱條を再養子)に迎え、水戸藩の跡継ぎに据えたのです。一方で、自身の実子である松平頼常は兄・頼重の高松藩へと養子に出しました。自らの血統ではなく、兄の血統を本家に戻すことで、長年の心の咎めを晴らし、筋を通したのです。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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