氷川丸はなぜ沈まなかったのか?横浜に眠る奇跡の船の真相【2026】
氷川丸はなぜ沈まなかったのか?横浜に眠る奇跡の船の真相【2026】とはどのようなものなのか? 主要なファクトを丁寧に紐解いて紹介します。
氷川丸の歴史を語る上で欠かせないのが、戦前のシアトル航路時代に繰り広げられた華やかな国際交流の舞台としての横顔です。中でもメディアやファンの間で語り草となっているのが、チャップリン 乗船の真相です。
世界的な喜劇王チャーリー・チャップリンが氷川丸に乗船したのは、1932年(昭和7年)5月のことでした。当時の乗船記録や手記によれば、チャップリンは太平洋横断航海の際、氷川丸の極上のホスピタリティと洗練されたフレンチに舌鼓を打っていました。特に彼を魅了したのが、船内の日本人シェフが腕を振るった「揚げたての天ぷら」だったと伝えられています。チャップリンは厨房を訪れて調理の様子を興味深く見学し、その繊細な味に感嘆の声を漏らしたという微笑ましい記録が残されています。
しかし、この航海の終着点には、日本近代史を揺るがす戦慄のドラマが待ち受けていました。チャップリンが神戸港に上陸した翌日の5月15日、時の首相・犬養毅が凶弾に倒れる「五・一五事件」が勃発したのです。青年将校たちの当初のテロ標的リストには、日米開戦の引き金を引く目的で「来日したチャップリンの暗殺」も含まれていたと後の公判記録で明らかになっています。チャップリンが予定を変更して相撲観戦に向かったため難を逃れましたが、氷川丸の優雅な航海は、まさに日本の軍国主義への傾斜と昭和史の激動の入り口と交差していたのです。
また、1938年(昭和13年)には、日本柔道の創始者でありアジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた嘉納治五郎が、幻となった1940年東京オリンピックの招致活動を終えた帰途、氷川丸の船内で肺炎のため息を引き取りました。激動の時代を駆け抜けた数々の偉人たちの歓喜と無念を乗せ、この船は歴史の証人として太平洋の白波を切り裂き続けました。