武田四天王最強・山県昌景の真相|赤備えの原点と壮絶な最期を追う

武田四天王最強・山県昌景の真相|赤備えの原点と壮絶な最期を追うを徹底追究! 知っておきたい トピックの裏側を凝縮して配信します。

山県昌景の代名詞といえば、軍装をすべて朱塗りで統一した「赤備え」です。戦場においてひときわ目立つ赤色は、敵の標的になりやすい危険を伴うため、部隊全員が卓越した武勇と規律を誇る最強の証として恐れられました。

この赤備えはもともと兄・飯富虎昌が創始したものでしたが、昌景が部隊を引き継いだことで、その戦術的威圧感は完成の域に達しました。天正3年(1575年)の長篠の戦いで昌景が戦死し、その後に武田家が滅亡すると、徳川家康は武田の軍事組織を徹底的に研究し、山県の旧臣たちを重用します。

家康は自らの側近である井伊直政に山県旧臣を配属させ、ここに「井伊の赤鬼」として知られる新たな赤備えが誕生しました。さらに大坂の陣で名を馳せた真田信繁(幸村)も赤備えを採用しており、山県昌景が磨き上げた部隊運用のブランドは、時代と陣営を超えて受け継がれることとなりました。

部隊・武将名詳細・編成の背景戦場での主な実績歴史的評価・影響飯富虎昌(元祖)武田義信の傅役。朱塗りの甲冑を考案し精鋭部隊を編成川中島の戦いなど初期の主要合戦「甲山の猛虎」と称され赤備えの原型を確立山県昌景(完成期)虎昌の旧臣を統合し、武田四天王筆頭として軍団を再構築三方ヶ原の戦い、長篠の戦い戦国最強の代名詞となり他国へ恐怖を植え付ける井伊直政(継承期)武田遺臣を取り込み、徳川家康の命により赤備えを再編小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い徳川四天王として幕府草創の軍事基盤を構築真田信繁(象徴期)武田ゆかりの意地と士気高揚のため全軍赤備えで統一大坂冬の陣・夏の陣(天王寺口の戦い)「日本一の兵」として後世に伝説を刻む
田中 結衣

田中 結衣

デジタルマーケティングコンサルタント

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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