徳川治済はなぜ江戸幕府最大の黒幕と恐れられたのか?権力掌握の真相
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徳川治済は宝暦元年(1751年)、徳川8代将軍・吉宗の四男である一橋徳川家の初代当主・徳川宗尹の四男として生を受けました。本来であれば分家の四男という立場上、他家へ養子に出されるか部屋住みで一生を終える可能性も極めて高い境遇でした。しかし、兄たちの相次ぐ夭折や養子縁組により、明和元年(1764年)に14歳で一橋家第2代当主の座を継承します。
青年期の治済は、幕政の表舞台で目立つような派手な振る舞いを一切見せませんでした。当時の幕政は、第10代将軍・徳川家治のもとで側用人から老中へと異例の出世を遂げた田沼意次が権勢を誇っていた時代です。治済は幕府財政の再建に邁進する田沼の権力基盤を刺激することなく、極めて従順な姿勢を保ち続けました。当時の日記や武家記録が伝える治済の人物像は、「無口で感情を表に出さず、慎重かつ礼節を重んじる人物」という極めて無害な貴公子としての姿でした。
だがその腹中では、徳川宗家の血統が途絶えかけている危機的状況を冷静に見極めていました。当時、10代将軍・家治の嫡男であった徳川家基が若くして死去すると、将軍継嗣の資格を持つ御三家・御三卿の中で、自らの長男・豊千代(後の徳川家斉)を家治の養子として送り込む計画を水面下で着実に進めていきます。天明元年(1781年)、豊千代は正式に将軍後継者として江戸城西の丸に入り、治済は「将来の将軍の実父」という不可侵の政治的足場を手に入れたのです。