僧侶から秀吉の右腕へ!宮部継潤の出世劇と浅井裏切りの真相
僧侶から秀吉の右腕へ!宮部継潤の出世劇と浅井裏切りの真相にまつわる役立つ知識を詳しく紐解きます。
織田陣営に加わった宮部継潤は、秀吉の播磨・但馬・因幡攻め(中国攻め)において八面六臂の活躍を見せます。天正9年(1581年)、苛烈を極めた「鳥取城の渇え殺し(兵糧攻め)」によって毛利方の吉川経家が自刃して開城すると、秀吉は山陰平定の最重要拠点である因幡国鳥取城主に継潤を抜擢しました。
武功を誇る荒武者が多い織田・豊臣家臣団の中で、なぜ僧侶出身の継潤が5万石(のち検地等を経て因幡一国差配・実質10万石規模)の大役に据えられたのか。その理由は、彼の多角的な統治能力にありました。
鳥取平野を流れる千代川の氾濫に苦しむ領民のため、継潤は大規模な治水工事を行い「宮部堤」を築きました。この堤防は現代にもその名を残しており、戦乱で荒廃した因幡の復興に尽力した名君として、地元住民から深く敬愛されました。
さらに天正15年(1587年)の九州征伐では、日向国・高城の陣において島津の大軍を相手に寡兵で頑強に持ちこたえ、豊臣本隊の到着まで持ちこたえるという軍事的武功を樹立。文禄・慶長の役では肥前名護屋城の留守居役や兵站管理を務め、豊臣政権を根底から支える最高幹部としての地位を不動のものにしました。