隻眼とは?片目・独眼の違いと歴史武将の真相や創作人気の秘密
隻眼とは?片目・独眼の違いと歴史武将の真相や創作人気の秘密について分かりやすく解説いたします。専門家の見解をチェックしてください。
「隻眼の武将」と聞いて真っ先に思い浮かぶ歴史上の英雄たち。彼らが片目を失った経緯には、史実に基づく医学的要因から、後世の軍記物で劇的に脚色された伝説まで、さまざまな真相が存在します。
1. 伊達政宗:天然痘の猛威と「肖像画の遺言」
「独眼竜」の異名で知られる仙台藩初代藩主・伊達政宗が右目を失明したのは、幼少期の数え5歳のときでした。原因は戦傷ではなく、当時猛威を振るっていた感染症「疱瘡(ほうそう=天然痘)」です。
重症化の末に右目の視力を失い、眼球が飛び出た状態になった幼き政宗(幼名:梵天丸)に対し、教育係の片倉小十郎(景綱)が短刀で突き崩して摘出させたという逸話が有名です。しかし、近年の歴史研究や一次史料の再検証によると、この劇的なエピソードは後世の編纂物による脚色の可能性が高いと指摘されています。
さらに注目すべきは、政宗自身の美意識です。政宗は臨終に際し、「親から授かった身体を不具のまま後世に残すのは不孝である」として、死後に描かせる肖像画や木像には必ず両目を揃えて描くよう厳命しました。そのため、瑞巌寺や瑞鳳殿に遺る同時代制作の公式な政宗像は、すべて両目がしっかりと見開かれています。
2. 山本勘助:隻眼・不具の天才軍師という虚実
武田信玄の懐刀として知られる山本勘助は、軍記物『甲陽軍鑑』において「隻眼で足が不自由(跛行)、指も欠けている醜男でありながら、神算鬼謀を誇る軍師」として描かれています。
かつては架空の人物とすら疑われていた勘助ですが、市河家文書の発見などにより実在の武田家臣(山本菅助)であることが確定しました。しかし、極端な隻眼・身体的特徴の描写は、後世の講談や芝居において「外見のハンディキャップを卓越した知略で凌駕する天才」という劇的対比を際立たせるために誇張された側面が強いと考えられています。
3. 夏侯惇:矢に射抜かれた目を喰らった豪傑伝説
三国志に登場する魏の重鎮・夏侯惇(かこうとん)の隻眼エピソードは、東洋の戦記文学屈指のインパクトを誇ります。『三国志演義』では、呂布軍の武将・曹性との戦いで左目を弓矢で射抜かれた際、突き刺さった矢を引き抜き、矢じりに付いた自らの目玉を掲げて「父の精、母の血、棄つべからず(父の精と母の血によって授かったものを捨てるわけにはいかない)」と叫んで飲み込み、そのまま敵を討ち取ったと描写されます。
ただし、正史『三国志』の魏書・夏侯惇伝における客観的記述は「軍中にあって左目を負傷した」という事実のみです。当時の軍中では、同じく夏侯姓の夏侯淵と区別するために「盲夏侯(もうかこう)」とあだ名され、本人はその呼び名を激しく嫌って鏡を見るたびに投げ捨てていたという人間味あふれる実情が記されています。
4. 数学者レオンハルト・オイラー:過労による失明と不屈の業績
武将だけでなく、学術の世界にも隻眼の偉人が存在します。近代数学の基礎を築いたスイスの大数学者レオンハルト・オイラーは、1735年頃、天文学の難問に没頭するあまり過労から右目を失明しました。
プロイセンのフリードリヒ2世が統率するベルリン・アカデミーなどで精力的に活動を続けたオイラーは、後に左目も失明して全盲となりますが、失明後にかえって頭脳の計算力と記憶力を研ぎ澄ませ、生涯で執筆した論文の半数以上を盲目となってから口述筆記で生み出すという超人的な足跡を残しました。